ブロンド日課帳

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『サン・ラーのスペース・イズ・ザ・プレイス』と『未来惑星ザルドス』を二本立てで観る

あるミニシアターがこの日本を抱き合わせで公開していたので観てきた。

 

 『サン・ラーのスペース・イズ・ザ・プレイス』はジャズ・ミュージシャンであり、自らを土星人と呼ぶサン・ラーの思想が映像化された作品。公開は1974年。

ミュージカルであり、SFであり、特撮であり、様々な要素がまじっているため物語の要約が難しいが、大枠は土星人であるサン・ラーがエジプトの太陽神さながらの衣装を見にまとい、地球の欲望を擬人化した人物と対決しつつも、地球上の黒人を救うべく自らの惑星への移住を提案する、という展開(だと思う)。あと大体のノリはNHKでやっていた岡本太郎作品の特撮パロディ『タローマン』を彷彿とさせる。安めのセットとか特撮描写が。

しかし圧巻なのはなんといってもサン・ラーの演技(?)である。いや、これはサン・ラーにとっての事実だからもはや演技ではないのかもしれない。ミュージシャンの俳優仕事にありがちな演技くささが全くないので、やっぱりなんらかの「勧誘ビデオ」に近い。

サン・ラーは黒人がアフリカから文明を興したとして、エジプト文明をモチーフにした衣装を身に纏い、太陽神ホルスの頭を被った従者を連れている。サン・ラーのラーも太陽神ラーだろう。1974年の作品だから仕方ないけれど、アフリカ大陸の文化を一つのものして捉えるのは今考えると少し危ないような気がする。近年そこの「アフリカの文化を扱うアメリカ映画」の手つきで失敗したのが『ブラック・パンサー』なので少し気に掛かった。

 

ラストシーンは音楽映画でお馴染みのコンサートシーンで終わりを告げるが、ここで観客が望むようなジャズの演奏はなく、ポエトリー・リーディングに拍節のない和声が流れるアヴァンギャルド・タイムが入る。

 

ちなみにシカゴ出身で22歳のアーティスト、Dreamer IsiomaのGimme A Chanceは『スペース・イズ・ザ・プレイス』のオマージュだと思われるので貼っておく。

 

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 さて、もう一本の『未来惑星ザルドス』はショーン・コネリーシャーロット・ランプリング出演でこちらも公開が1974年。監督はジョン・ブアマン。「人類を殲滅すること」を唱えるザルドスに仕える殲滅戦士である主人公ゼッドは、ある日ザルドスの中に潜り込み、そのままボルテックスという不死の人々が住む世界に迷い込む。こう書いてみると陶淵明桃源郷みたいな話だな。

話が軌道に乗るまでが冗長で、SFかつアクションものにしては歯切れの悪い前半部分が続く。話が動き出してからはテンポよく進むが、後半のシーンなんかはかなりサイケデリックで「これなんかやりながら撮っただろ」と思わざるを得ない。思わざるを得ないというか鑑賞後パンフレットの監督インタビューを読んだら「LSDをやりながら撮ったのでところどころ記憶がない」と語っていた。こうなったら冗長だった前半と急に展開がドライブしていく後半と、どちらが「監督の実力」なのか分かったもんじゃない。まあ両方だろう。

あと、ショーン・コネリーが拳銃を腰元で構えるとどこからどう見てもジェームス・ボンドになってしまうのがちょっと笑える。体の構え方がコンシャスというかちょっとコミカルというか。ガンホルダーからすぐに出してそのまま発砲するような西部劇の早撃ちシーン由来ゆえに腰元で構えてるのだろうけど、現代では顔の前で両手で銃を構えるのが主流だから、そんな動作一つをとっても時代を感じる。

 

 この二本立てをこの記事で扱ったのは同じ1974年にあってどちらも世界の終わりを予感している映画だったからである。その点で良い組み合わせだった。

『サン・ラーのスペース・イズ・ザ・プレイス』でサン・ラーは、欲望と恐怖に覆われ精神性を失った地球を見限って、黒人たちに移住を提案する。移住そのものは解決策にはなり得ないが、黒人の目覚めを呼びかけており、新しい社会に向けての希望も垣間見える。一方で『未来惑星ザルドス』は特権階級の知を民主化し、従来のシステムが崩壊するところで終わってゆくぶん悲観的だ。不死の人びとが喜んで死んでいくシーンはお世辞にも趣味が良いとは言えない。

1968年、ヒッピーの季節をヘイト・アシュベリーで過ごした人類学者ヘレン・S・ペリーによるノンフィクション『ヒッピーのはじまり』で、ペリーは1968年の若者たちに撮って、広島長崎への原爆投下と冷戦によって「世界が終わる」という終末思想は近しいものだったと述べている。このままでは世界が滅んでしまうという危機感と無力感がこの時代の若者たちを覆っていたのは事実だろう。前者はカウンターへと向かい、後者はドラッグによる自己変革へと向かう。

 

 この2本にもそのうち世界が終わるという前提が共有されているようだ。我々が過ごすこの時間は永続的ではない、という当事者意識のような問題意識。

特に『ザルドス』はヒッピーたちが目指した知の民主化が、ペシミスティックに描かれているぶん、ペリーが「ヒッピーの終わり」と呼ぶ1969年以降の映画だなと感じた。